昭和54年6月1日月例祭 親先生御教話



 「自分でするという心におかげはなし、させて頂くという心におかげがある」。信心をさせていただきますと、なら、誰でも一応は、させて頂くということを申します。ですから、その中味がさせて頂くでなければならない。ただ言葉だけのさせて頂くではならん、心からさせて頂く、ね。
 今日、福岡の伊藤さんが昼、御参拝なって、御祈念中に頂かれた事を御届けをしておられます。なかなか熱心ですし、もう一途に神様へ向こうていかれる方ですが、頂かれることもいつもほんとに素晴らしい事を頂かれる。
 今日も頂かれることが、手へんに無ということ、無いという字。こう、手へんに、それに無ということ。皆さんどういうふうに思われますか。もし皆さんが頂かれたとするならばすぐピンと来るでしょう、ね。手へんに無という字。神様のおかげを頂くより他に手はなしということなんです。神様のおかげを頂くより他に手はなし、ね。
 今日は、うーん、昼、各、山口支部、それから佐賀支部、あっちこっちの支部の方達が、支部長さんが支部員の方達を同道で今日は御参拝なられました中に、佐賀の空閑支部長のところでおかげを受けておられる、また、おかげが表れておる御届けがございました。今日私、研修の時にその事を話したことでしたけれども。人間の心で、いうならば佐賀に支部を作ろう、支部を作ったと、いうのではなくて、合楽の場合はいつの間にか、自ずと、いうならば催しに催されて生みなされたというのが一番本当だろうと思うのです。
 ですから、生みなされたところに神様のお育てが起らないはずがないのです。私が作るところには、そういう働きは起こってこないです。合楽の場合は何処でも、皆さんの上にもそれと同じような事が言えると思うです。先生、まだ先月支部を結成して、そして先月、うーん初めての共励会をしておかげを頂いた、先々月ですかね、だからもう二回目でしょうか、もうところですけれども、空閑さんのお宅に日々参拝者がある。合楽までお参りが出来んからお参りさせてくれと言うて参って来る。
 もう信心はあんまり好きではなかったある支部員の方のご主人が、今朝こちらにお参りをする時に、なんか背中が最近痛むと、こう言うておられる。いろいろ薬を飲んだり、こう薬貼ったりされるけどもいかん。そこで、そのお前がお参りをしとる神様にお願いをしてくれと、私は空閑さんの所にお参りをさしていただくからと、とまあ、主人が申しましたと。はあ、そりゃもう、それだけでんおかげ頂こうばってんなあ、とにかく痛いにつけ、痒いにつけ、私共が分からして頂かなければならないことは、痛いからというて痒いからというて、これが動かないからというて、さあ自分で動かそう、今痒いものを止めてもらおう、止めようとしても自分ではどうにも出来ない、ね。
 そこで私は今日は、その伊藤さんが頂かれた話をさせて頂いたんです。帰ってご主人にこのことを言うて下さい、ね。そうしたら、ね、いうならば参った拝んだと心に神様が、神様に心が向かうただけでもおかげは受けるでしょうけれども、そういうことが分かっておかげを頂いたら、信心を頂くことになるのだ。なるほどお前が言う通りに、ね、自分の力ではどうにも出来ないんだ、もうとにかく神様のおかげを頂くほかに手はないというところにです、ね、ひとつこの手へんに無と書いた字を何と読むですか。ね。撫でるという字。それこそ神様が撫で擦り擦るようにして、もうほんとにこんなにおかげを頂いても良かろうかと思うほどしのおかげが頂かれるです。
 これは昨日、31日の御礼信話会に、うちの御礼信話会に安武という高校の先生が発表しておられました。もう最近おかげを受けておられる生徒の上に、自分の身の上に、もうほんとに自分の行くところ行くところに、その神様のおかげを実感せずにはおられない。有り難うして勿体無うして、これは私の有り難いのは、勿体無いのは、これはほんとなものじゃあるだろうかと思うほどしに有り難いという発表をなさいました、ね。いわゆる撫で擦り、ね、されておられるような実感なんです。
 ご自身も、まあそれこそ、まあどうにも出来ない中に、おかげを受けられたり、または、病気の上におかげを受けられたり、もうほんとに間違いない神様の働き、おかげを受けて、そして信心が段々分かってくればくるほどに、そういう有り難い、ね。そしてそこに分かられたということはです、神様のおかげを頂くより他に手はないということが少し分かってこられた。その少しがだんだん、だんだん本当なものになっていく時に、いよいよ我無力の自覚が出来てくるんです。ね。
 今日もある人が参ってまいりました。家内がお礼参拝しなきゃならんと思いますけども、もうとにかく家移りをするのに、もう自分が一人でもう、まあようあげんやられるこっちゃと思われるくらいに一生懸命、その家移りの御用を自分でしたと。ほるでもうヘトヘトになった。お礼に出らにゃんばってん出られんという御届けであった。ねえ。もう自分がね、それこそ我でね、いうならば家移りをするから疲れるんです。ね。神様のおかげを頂かなければ、と言う事になって着たらね、おそらくそこには神様が手にもなり足にもなり、または人を使うて、それこそ神様が、それこそ自分の手足のように動かして下さるような働きもまた起こってくると私は確信するんです。ね。
 自分がするのとね、させて頂くということ、許されてするということ、許されて動いておるということをです、分からしていただくということが信心の、いうならば根本なんです。ね。そこから、分かって信心を進めていくとです、いよいよ、いわゆる信心にならなければおられない事になるのです。信心にならなければならない、いわゆる真心にならなければおられない。そこから自ずと信心は生まれてくる。信ずる心が生まれてくる。
 いよいよそれが育ってまいりますと、信心である、自分の心で自分の心が拝めれるように、自分で自分の心が拝めれるような神心が育ってくるのです。それを願い求めての信心修行がお道の信心であります。ね。
 だから私がするにはおかげはない。ね。させて頂く心におかげがあるという事が皆さん分かります。なら、そら分かったから、ほんなら今日はいっちょさせて頂こうかと、ね。歩かして頂いとる、ね。車の運転をさせて頂いとる、ね。ところがなら、実感としてです、それこそこんなに有り難い、こんなに勿体無いという心は、なかなかそれに伴うてこない。それがいうならば、本当のものでないからなのでございます、ね。それをいよいよ本当なものにしていくというところに修行があるのです。
 けれどもそこが分かって修行させて頂くと、結局は私の事であり、私のものになるものですから、信心が楽しゅうなってくるです。ね。根本のところが分かって信心の稽古をさして頂くと、出来なかったけれども、また実験、また実験と実験を繰り返しておるうちに、ね、立派な出来てくるようになる。それが楽しいのです。お花の稽古でもお茶の稽古でも同じ事。稽古が出来て、それがだんだん本当なものになってくると、ね、それが楽しゅうなってくるのです。だから信心がね、そういう信心の稽古が楽しゅうなってくるような、やはりおかげでなからなければならない。
 今日、えー行本先生が御届けに来て参りました。もうそれこそ一生懸命に信心に取り組んでますからね、もうほんとにその涙ぐんだような感じです。真剣なお届けがあるんです。私は御届けを聞く前に神様にどこを御祈念をさして頂いておりましたら、先生が一生懸命に、こうたすきを掛けているところを頂いた。ところがたすきの紐が少し短いもんですから、こう結ばれないで、まあほんとに、はがいいなあというような状態のところを頂いた。 信心さして頂くというならしっかり信心の帯をせよと仰るですね。信心の帯びもじゃけれども、しっかり、たすき掛けの信心をしなきゃいけないなあと、私今日その時思うたです。どういう事だろうかと、こう御届けするでだろうかと思うたら、ね、日々ここで信心修行させて頂いておれば、神様の絶対、神様の間違いないのも見たり、聞いたり、そしてこれが本当であるという事が分かるのだ。分かるから、それに本気で取り組ましていただくけれどもです、いうなら体の方がいうことを聞かない。もう歯痒いふうに出来ない。ね。 いうならば、させて頂くということは、確かに自分ですることは出来ない。神様のおかげを頂かなければ出来ない、神様の手による他にはない、手はないという事は、分かっておるんですけれども、そのさせて頂くという実感が湧かないということの悩みを御届けするのでございます。ははー、今ね、私がこういう、あんたがここに座った時にこういう事を頂いたんだ。ね。結局、しっかり信心の帯もしておろう、けれどもこれにもうひとつたすき掛けをしませんとね。いうならブラブラ袖がこうしとったんではね、先生方黒衣を着けております、ならこれで、お炊事の用意したりお雑巾掛けをした、いろいろそらなかなかし難い。なら見とっても、こうなんかてれーとしたごたるふうで、そのー、きりきりと御用出来ない。ね。
 そこで、それこそたすきをを掛けてしておると見た目にもきりきりとあるが、自分も仕事がし良い。信心のたすき掛け、たすきも掛けようと思うておるんだけれども、ちょっと短い。ここで結ぼうと思うておるけれども、なかなか結べないそのもどかしさ、歯痒ゆさが今日の御届けであったということです。ね。
 だから、分かっただけではいけないでしょうが、それを自分のものにする為にも、本気でたすき掛けの信心を、しっかり信心の帯をせよ、ね、だけではない。しっかり信心のたすき掛けの信心をさせて頂けということになるのです。
 いわゆる合楽理念、ね、それは、もうとにかく有り難くて勿体無い、楽しい、しかも愉快にまでなってくるんだと説かれております。ね、けれども本気で信心の帯をして、本気でたすき掛けの信心の姿勢が出来て、合楽理念が楽しいのだ、有り難いのだ、しかも愉快にまでになれれるのだと言えれるのです。その間に、なら今日、行本先生が悩んでおる、苦しんでおるようなところ、分かっておるけれども、させて頂くということは分かってるんだけれども、ね、なかなか出来んで、自分がしておる歯痒さ、ね。それを、なるほど神様のおかげを頂かなければ出来ない今難儀を感じておる時、今、手が動かんごとなっておる時、今、足が動かんようになっておる時に、初めてです、ほんとうに神様のおかげを頂かなければ出来ることではない、自分で動かしておったと思うておったけれども、自分で歩いておると思うておったけれども、歩かして頂いておったんだ、この手を神様が許されてこれを頂いておったんだということが分かる。ね。その実感がです、おかげになってくる。ね。
 今日ちょうど、うーん、昼からの、昼からでしたでしょう、上滝さんが晩にお参りが出来ないからと言うて上滝ミチエさんが参ってまいりました。もうそれこそ、あんたがた、この頃有り難い、有り難いけどほんなものになったばいち(笑)私申しましたら、それがほんとに先生有り難いとですからとこう言う。もう第一、何が一番有り難いと思うても私と嫁、私と母親、また嫁と私の母親、いわゆるもう九十幾つかのお婆さんがおられる、そして上滝さんがおって嫁がおるんです。それに孫達が何人もおるんです。その間の、なんと言うんでしょうか、もうそれこそ水も漏らさんような日々生活が出来ておるということが、もう私は有り難うして有り難うしてたまらんと言うてお届けを致しました。
 今度、御建築がもう始まるという、それこそ、まあこえがけの、まだ、いたけの時分から自分で密かに合楽建設の基金にというて月々お供えをさしてもらっておる。そのお供えをする時に、先生、これは私の命のある限り、合楽建設というのは、もうこう、立ち上がったから、ここが出来たから成就というとは思いません。もうおそらく合楽建設はもう限りなく続けられていく事でございましょうから、私の命のある限りを、これを月々続けさせて頂きたいという願いの基に今日までずーと続いておる。先生こういう発願をさせて頂いて、こちらの方のように思います。ね。万事にお繰り合わせを頂く。人間関係だけではない、経済の上にも思いがけないおかげを受ける、そして分からせて頂く事は、北野の中村さんじゃないけれども、お参りのし儲け、お供えのし儲けと言われるが、まさにその通りですと言うのです。
 お供えのし儲けだ、自分がしておるのじゃない。神様がさして下さる、だから発願だけはこちらがしなければならない。発願だけは、こちらが本気でそのことだけに、いわゆるたすき掛けなったということになる。有り難うなってきた、楽しゅうなってきた。それで私申しました、あんたが一生したいち言いよるが、これをひとつ嫁にもまた、次の子にも孫にも伝えていく。合楽のある限り合楽建設は続くことであろう、世界中に広がっていかなければならんのだから。だからこのことだけはです、もうあんた一代じゃない、それこそこれを嫁ごに伝えきっていきなさい、嫁がまた次の嫁に伝えていくような、それこそ上滝家のある限り、合楽のある限り、これを続けさして頂こうという、ひとつ大発願をせにゃいけんなと言うて話したことです。ね。うわー、そげんせにゃんならとても私だんもてんちゅうこっちゃないの。ね。
 神様がさせて下さるという実感なんです。問題は発願です。自分が一心発起しなければならない。だから、なら今日から始めようかではなかなかもって出来ない。ね。行本先生が、いうならば、いうなら身も心も本気で修行させて頂く事にしておる先生ですらもです、分かってるんだ。神様の働きも目の当たりに見たり聞いたりしても、確かにそうだと分かるんだけれども、自分の体が言うことを聞かん。それこそもどかしいことであるけれども、たすきの紐が短い。これをもうちょっと長くして、ここにすきっと、こう、たすき掛けだ出来た時に、いうならば信心も御用も生き生きとして、それこそ、ね、活気のある信心姿勢が出来るだろうというものでございます。
 私共が段々信心をさせて頂く、実験に実験を重ねて頂くうちに、いうならば機が熟してくるんです。その間を修行なんです。その間がです、いうなら実験に一回失敗した、二回失敗したからというて、いうなら今日の行本先生じゃないけれども、そこを繰り返し繰り返し、そのところの信心修行に焦点をおいておかげを頂いておるうちにです、いうならば機が熟してくるんです。
 成り行きを尊ぶとか、大事にするということは、その機が、いよいよ間違いなく熟することをです、ね、はっきりとキャッチ出来ることのために、常日頃のいうならば自然の働きを尊ばしてもらう、大事にしていくんです。
 今日の佐賀支部の空閑さんとも話した事でしたけれどもです、ね、ここに佐賀支部が生まれたというまでには、もう、いろいろと催しに催されて誕生した。誕生したら、もう途端に空閑さんのところに人が助かるようになった。お参りさせてくれという人が出来てきた。支部長が参ると言うたらなら私も、私もと皆ついてくるようにおかげを頂いてきた。
 今日、延岡の田中先生のところでもそういうお届があった。もう毎日毎日もう電話が掛かってまいります。もうそれこそね、延岡地区の者が燃えに燃えてます。人間が助かっておる。ね。で今度おかげを頂いてですよ、それこそたくさんの人が集まって共励でも出来るようなお部屋をひとつ作らせて頂きたいという願いがございました。まだ支部の願いがあっとりますけど、まだ支部のお許しを頂いとりません。ね。けれどもね、もうそういう催しに催されての働きが起こっておる。ね。そして、いうならば十月十日(とつきとおか)というね、機が熟した時に生みなされるところのおかげというものは、いよいよ神ながらなおかげということになるのです。
 合楽の信心はね、そこのところを願い、そこのところが頂けれるような信心をいよいよ進めていかなければならないと思います。皆さんどうぞ、ね、私がするのにはおかげはない。させて頂くという心になればおかげがある。させて頂くということは、そんなら今日話を聞いたけん分かったというのではない。今、申しますような様々なところを通らせて頂いて、そこに焦点をおいて一歩づつでも二歩づつでも近づかしていただいて、ここにはっきり信心の帯が出来る。たすき掛けの信心が、いうならば許されて出来る様になった時に、もう軽々として、脇から見ても、それこそ生き生きとする。ね。あの人を見ておったらこちらまでが弾んでくる。心が。というようなおかげになってくる。初めて信心が有難いものだ、楽しいものだ。ね。そしてこんなにも愉快なものだということになる。
 今月の焦点は、今朝私、御神前で沢山の人が提灯を下げておる。ところが、中に光りが入ってない。これではね、それこそついて来なさいこの提灯に、というても、ついてくる者はいません。そん中に、明かりが点って初めて、ついて来なさいと言やついても来る。ね。ついて来なさい、もう絶対これについてさえ来れば間違いないですよ、というね確信をもっての、また示現活動も出来るというもの。
 その光というものは、いうならば力だと。信は力なり。ね。信心。それを、なら真心から始めて、信ずる心が生まれて、そして神心にまでも、という信心過程をたどらして頂くことが、楽しい有難いということにならなければならない。信心の光を頂こう。それにはまずね、させて頂く心におかげがあるという信心の内容を、いよいよ深めていきたいと思います。  どうぞ。